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”本能寺の変が松坂屋を創った” その1 Garden Story in Nagoya [写真 Photograph]



かつて名古屋の五接家と言えば、松坂屋、中部電力、東邦瓦斯、名古屋鉄道、東海銀行の地元5大名門企業であった。


だがその後、東海銀行が合併で消滅し、松坂屋も名を残してはいるものの、
合併で名古屋から本社が転出してしまったので、もはや名古屋の名門企業とは言えなくなってしまった。


かつての名古屋五摂家はもはや死語ととなってしまった訳で寂しい限りであるが、
私の自宅から程ない所にかつての松坂屋代々の社長宅がある。


それが揚輝荘だ。






揚輝荘
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実は松坂屋創業の伊藤家で最後となった松坂屋社長ご令嬢とはある御縁があって、
四半世紀ほど前に、この揚輝荘を見学させてもらったことがある。まだ私邸であった頃のことだ。



当時は伊藤家の松坂屋第17代社長、伊藤次郎左衛門の時である。
名古屋東部丘陵地の覚王山にある広大な敷地であった。


訪れて驚いたのが、歴史的な謂れであった。
何とも多様な物語があったのかと感嘆したのだが、
その直後、名門松坂屋で御家騒動が起きて、遂には伊藤家は追放されてしまう。


大番頭のクーデターであった。何とも驚いたものだが、こんな謀反で松坂屋は転落が始まっただろうか。


名門の伝統を駆逐してしまった付けは如何にも甚大であったように思う。
結果的に本社は名古屋から消えてしまったのだから。




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ところで、松坂屋創業は明智光秀が謀反を起こしたことがきっかけになったと言ったら、意外に思われるだろうか。


織田信長の側近であった伊藤蘭丸祐道が本能寺の変で主君が亡くなり、武士から商人へと転じたのだそうだ。
これからは商人の時代であると人生観を転じたらしい。


それも何と48歳の時であったと言う。
当時のその年齢はもう人生を全うしてもおかしくない頃であった訳であったし、
武士から商人になるという勇断には何とも凄いなとも思ってしまう。




それにしても信長同様で先見の明があったと言えようか。
その後、その商売は何と400年以上も続いて繁栄したのだから。


だが、名古屋・本町で始めた「いとう呉服店」が商売繁盛していた時、
大坂夏の陣で何故か祐道は再び刀を取り豊臣勢に就いて結局、戦死してしまう。







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しかし、いとう呉服店は伊藤家の遺族によって、その後も商売繁盛を続け、前世紀には遂に頂点を極める。
名古屋は覚王山1万坪の地に移築と大邸宅の建築が始まったのは1918年からであったと言う。


それにしても、この地を選んだのは織田信長の因縁を感じない訳にはいかない。
大通りを挟んだすぐ向こうの丘陵地には信長の父・信秀が築城した末森城跡がある。
だがその後、末森城主となった弟の織田信行は信長に殺された。


何と言う因果だろうか。
その地のすぐ脇に信長の家臣であった武士の末裔が大邸宅を築いたのだから。







伴華楼
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揚輝荘は今では名古屋市に寄贈されて一般公開されている。
名古屋大空襲で、ここにも多数の爆弾が投下されて、少なからずの建物は消失したそうだが、
貴重ないくつかの建物は焼失を免れた。


写真の伴華楼では年始にいつも書き初めが今でも行われて、時々地元のニュースになったりもしている。
しかし、四半世紀前に見学させてもらった聴松閣は見学日が限定されて要予約だそうだ、残念。






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揚輝荘にはこの他にも優雅な建物が続いている。
その様子はまた改めてということで・・。









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コメント 2

せつこ

お越しいただき ありがとうございました。
by せつこ (2010-05-28 21:53) 

大黒屋

せつこさん

コメントありがとうございました。
by 大黒屋 (2010-05-29 16:37) 

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